インタビュー#16 野村佳香「『私は人々を幸せな気持ちに導くことができているだろうか』と何度も原点に帰りながら」

公開:2023.09.06

看護師として働きながら、その知識や経験を生かして新しいビジネスを手がけたり、看護とはまったく別の世界でパラレルキャリアを歩んだり、忙しい看護の仕事をしながらでもプライベートを思いっきり楽しんだり…。ナースとしての新しい生き方をみつけようとしているナースたちの”働き方”や”仕事観”に迫るインタビュー企画。第16 回は看護部長でありながら実名でInstagramで発信している野村佳香さんにインタビューしました!
野村佳香さんのプロフィール

これまで総合病院で救命救急、外科内科、外来、手術室などの診療科をまわり、訪問看護ステーションの管理者などを経て、現在は奈良県にある秋津鴻池病院の看護部長。貪欲な性格から出産・育児をきっかけに保育士の資格取得や大学院に進学。Instagramでは看護や仕事の日常について発信中。

あらゆることに貪欲に、ときに破天荒で

編集部 編集部
まずは野村さんのご経歴についてお聞きしたいです。これまでどのようなところで働かれていたのでしょうか。
野村 野村
本当にいろんなところで働いてきました。

総合病院の救命救急、外科内科、外来、手術室など診療科目はほぼ全部回ったと思います。

訪問看護ステーションの管理者もしていたことがあります。

長く病院で働きながら結婚や妊娠、出産を経験して、異動や応援で他病棟に行くことにも不満はなくて面白さを感じていました。

そのなかで主任や師長、部長となって今日に至ります。
編集部 編集部
かなりパワフルにさまざまなところで働かれていたんですね。

そもそも看護師になったきっかけと、なぜいろんなところで働いてみようと思ったのでしょうか。
野村 野村
実は看護師になったきっかけは初恋の先生の影響なんです。

高校のときに好きだった先生がいて、当時の自分は結婚すると思い込んでいたんですね。

そんな先生から「お前は看護師か学校の先生が向いている」と言われていたので、「私は看護師になる」と思って看護学校に入りました。

だけど、その初恋は先生がお見合い結婚したことで高校卒業とともに終わってしまったわけです。

それから奈良県の看護学校に入ってからも「やるならやるで、楽しまなあかん」と、元々性格が破天荒なところもあったので、いろんなことをやってみたいという気持ちは強くあったと思います。

授業中眠たくなっている自分に対して、眠気と戦っている自分が面白いと思うようなところがあったり、実習先の指導者さんが非常に厳しくあったときでも、負けたくない、この指導者さんよりも絶対に知識を持ちたいと思って勉強したり…。

しまいには、指導者さんが参ったとなるまで質問していたので、いろんな意味で目をつけられていたタイプだったでしょうね。

それでも、最初に入職した大学病院では3日目で辞めた経緯があります。

それは、元々は脳外科希望を出していたのに、配属は手術室だったからです。

手術室が嫌だったわけではないけど、なぜ手術室だったのか私としては納得ができず、当時の看護部長に会いに行って聞いたことがありました。

すると、「まぁ、そう言わんと、3日間だけ行ってみ」と言われ、一旦その話をのみました。

1日目と2日目はオリエンテーションで終わり、3日目から手洗いの練習をさせられたんですけど、大学病院の手洗いが非常に厳しかったんですね。

それで、私はこんなことをするために看護学校に入ったわけじゃないと、3日目のお昼にたわしを投げてそのまま辞めました。

今になって思うと、破天荒なことをしてしまったなとは思います。
編集部 編集部
その後はどうされたんでしょうか。
野村 野村
学校の先生から「それだけ勢いがあるんだったら救命救急に行ったらどうだ」と言われて、奈良県を離れて救命救急のある病院に移って働きました。

救命救急では思い切り自分のエネルギーが出せる環境で、勢いよく働いていましたね。

いろんな仕事ができるようになって、ありがたいことに、私がいないとここは回らないよと言ってもらえるような環境で、今思うとちょっと天狗になっていた時期かもしれないです。

救命で私が患者さんの命を助けているんだと錯覚していましたから。

だけど、20代後半になると、いやいや…これは私が助けているんじゃないということがわかりだして、ただ単に私は運命のその場にいるだけなんだと気づいて、勉強するようになりましたね。
卒業式の時。にんまり、楽しむことを考えていました。
救命当時の休憩中。予防着を着ていた時代。昭和感はんぱないですね。(笑)

一度原点に帰って、ちゃんと看護の勉強をしよう

編集部 編集部
救命救急で働かれていて、天狗になっていたかもしれない、そこから自分の考えが変わったきっかけはなんだったんでしょうか。
野村 野村
これには大きな出来事がありました。

あるとき心肺停止で運ばれてきた40代の女性がいて、救命救急ではよくあることだったので、いつものように慣れた感じで準備や処置をしていたんです。

結果、その女性は亡くなってしまったんですが、それでも亡くなった患者さんや家族に対して、いつものように声をかけながら死後の処置をしていました。

それが目の前にいる患者さんへ最後にできる看護だと思ってやっていたんですね。

だけど、そのときはいつもと違いました。
後に到着されたご家族のなかに中学生と高校生の子どもたちがいて、手にお弁当箱を持っていたんですね。

そのお弁当をふと見た瞬間に、数時間前に亡くなられたお母さんが作ったであろうお弁当を食べずに来ている、この子たちはこのお弁当をどういう思いで食べるのかという考えが頭をよぎったんです。

お母さんが最後に作ってくれたお弁当を食べたいけれど、食べられないかもしれない、そう思うと気持ちがはちきれそうになって…。

そうしたら、声がかけられなかった。ご主人や他の家族には声をかけられても、子どもたちには声をかけられなかったんです。

これは自分のなかでも衝撃的で、忘れられない出来事ですね。それまでにもこういう場面はあったと思うんです。

でも、今までは気づかなかったんです。それ以上に患者さんを助けられたとか、どうもできなかったという自分勝手な思いの方が大きかったんだと思います。

そのときに私は、一度原点に帰ってちゃんと看護を勉強しよう。自分のなかに看護をしっかり落としこまないといけないと思いましたね。

幸せな気持ちに導く、ハッピーをお届けするには

編集部 編集部
それから大学院などにも通われて、そこで何か自分なりの答えのようなものはあったのでしょうか。
野村 野村
38歳のときに大学院に行って、最終的に私の中心にあるのは「人々を幸せな気持ちに導くこと」だと。看護のあるべき姿に気づいて、言語化できたことが大きいでしょうか。

たとえば、痛みのある患者さんが鎮痛薬を飲んだけど、痛みが緩和されない場合、看護師は自分たちの知識でもってどのように対応したら痛みを軽減できるか知っています。

それで、患者さんが一瞬でも「マシになった」と幸せな気持ちになれるようにお届けできること、これじゃないかと思ったんです。

ハッピーを届けるためにはどうするのか、これは患者さんのみならず、患者さんを通したすべての人々に対してです。

緊急入院がたくさん来てスタッフが大変なときでも、「みんなでやろうよ、やれるよ」と一瞬でもつらくない空気にしようと意識していますね。

看護部長という立場になったら、もう目の前の患者さんだけではなく、日本中の人たちを…みたいな気持ちになっています。
編集部 編集部
幸せという言葉はInstagramの発信にも通ずるところがあるように感じます。
Instagramはどのようなきっかけではじめられたのでしょうか。
野村 野村
最初は、病院看護部として法人の許可のもと渉外活動目的ではじめたのがきっかけです。

今いる秋津鴻池病院は奈良県でも通勤が不便な場所にある精神科と療養と在宅がある病院なんですね。

なので、若い看護師たち向けに、人材確保の一環で宣伝が必要だ、と命を受けました。

最初は教育計画やイベントのお知らせなどの発信をしていたんですけど、コメントなど看護師さんと会話に繋がらないことがネックでした。

それで、もうこれはまず内部に向けてやっていこうと切り替えて、顔出し、名前出しにして、「うちの看護部長おもろいで」となったほうが一番の宣伝になるんじゃないかと思い、今のスタイルになりました。
編集部 編集部
Instagramでもコメント1つひとつに返信しているのが印象的でした。
野村 野村
そうですね。
コメント欄を通して現場との対話に着眼したのは、人事異動がきっかけです。

人事異動では私自身の経験もありますが、一緒に働いていないスタッフのことをみるって難しいことだと思うんです。

師長さんや副部長の声だけじゃなく、その人の人生に関わることなので。

だけど、1人ひとりじっくりと話を聞く時間はあまりありませんから、日頃からとにかく現場の声をいろいろ聞きたい気持ちがあって、現場に向けて発信し続けています。

コメントやメッセージは内部の人からも多くなりました。
本当にいろんなメッセージがあって、こういう風になりたい、こういうテーマがいいというリクエスト、謝罪や怒りのメッセージもあり、そうしたときはすぐに現場に行ってみるようにしています。

普段の仕事でも、なるべく朝7時から夜20時くらいまでは看護部長室にいるようにしているのですが、始業前と終業後の時間帯にはそっと扉を開けて私のところに来る看護師もいます。そんなときは「なんか食べる?」と迎え入れて話をすることも多いですね。

看護師としての原石を私たちがとりこぼしてはいないか

編集部 編集部
野村さんは主任や師長、看護部長と経験されていますが、管理職の魅力についてどう考えていますか。
野村 野村
私は今までの経験のなかで一番楽しかったのは、主任をやっていた時期ですね。

師長さんから出される病棟の目標や方向性に対して自分でどう戦略を立てて、スタッフを巻き込んでやっていくか、いろいろ考えて実行するのが楽しくて。

うまくいって理解してもらえたときはもちろん、失敗したときでもプランAからプランBに変更してチャレンジする。

新人看護師やプリセプターのように立場が違う看護師のそれぞれの言っていること、考えていることを深く理解して、そのギャップに気づいて対処する。

新しい提案をして交渉をしたり、今までにない取り組みを勧めたり、そういうのが好きだったのかもしれません。

プリセプターのローテーションや院内留学などいろいろなことをやっていました。
それでも、やっぱり管理職になると患者さんに直接関わる機会は減ってきてしまうので、今でもときどきこっそりと病棟に会いに行ったり、清拭に入らせてもらったりすることはあります。

スタッフの看護記録を読んで、「患者さんとこんなやりとりをしていて、患者さんもきっとこんなふうに笑っていたんだろうな~」と、ケアの場面を想像したりするのも楽しいですね。
日本看護協会へ投稿した記事
編集部 編集部
野村さんは、患者さんに対してだけではなく、看護師に対しての看護をしているように感じました。

野村さんが今後考える目標、チャレンジしたいことはなんでしょうか。
野村 野村
今朝もこの話をしたばかりなんですが、看護学校を作りたいと思っています。

Instagramでも血ガスのデータの見方や看護過程の展開、関連図などのノウハウに関する発信は多いですが、本当に大事な看護の心、考え方、信念というものがちゃんと落としこめていないと感じることがあります。

そうしたことを伝えながら将来の看護師を育成していきたいと考えています。

最近では、看護学校のニュースが取り上げられることも増えてきましたが、看護師としての原石を私たちがとりこぼしてはいないかと考えることがあります。

磨き方を知らないままでいるのではないかなと思うんです。
編集部 編集部
力強い目標ですね。
それでは、最後に読者に向けてメッセージをお願いします。
野村 野村
看護は楽しいです。人々を幸せに、ハッピーにできる仕事だと思っています。

だけど、しんどいと感じる人はその方法がわからない、教えてもらっていないだけかもしれません。

磨く人がちゃんと磨けていないし、方法を誰からも教えてもらっていないので、何をしているかがわからないだけで、あなたたちがやっていることは間違っていません。

人々への貢献をしてくださっているということは間違いないですから。
看護の素晴らしいところは、患者さんがいること、対象者がいることです。

つらくしんどいことが私にもありますが、同時にそのときは患者さんが置いてけぼりになっているかもしれません。

患者さんがいること、その患者さんは自分の長い人生のなかで今、出会っていて、次に出会うことはないかもしれないんです。

そう思うと、また少し違った視点で考えられるのではないかと思います。

聞き手・ライター:白石弓夏


看護師兼ライター。小児科や整形外科病棟で10年以上勤務。転職の合間に派遣でクリニックやツアーナース、健診、保育園などさまざまな場所での看護経験もあり。現在は非常勤として整形外科病棟で働きながらライターとして活動して5年以上経つ。
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